発達遅滞 サクセス・ストーリー アダムがたどった健常への道


学校では様々な困難がありました

アダムは歩き始めるまで健康な子どもだと思われていました。
そのうちに行動が他の子どもたちと違うことが明らかになってきましたが、ご両親も、先生、医師も、何が問題なのか、どうしたらよいのか全くわかりませんでした。

お母さんは次のように報告しています。
「私は気がついていたのですが、問題だと認めることはできず、心の中で理由をつけていました。
この子は他の3歳児に比べて、ちょっと元気すぎるだけだわ。
話し方はちょっと赤ちゃんぽいけれど、そのうちにちゃんと話せるようになるはず。
子どもがものを壊すのは、よくあることだわと。」

ある日、保育園でのアダムの様子を見たお母さんは、アダムが他の子どもと明らかに違うことに気付きました。
お絵かきもしない、質問されても答えない、そして先生の話も聞いていないようでした

研究所でライザ・ミネリと会いました
そのころになって、アダムはあまり耳が聞こえていないということに、ご両親はようやく気付いたのです。
よく聞き返すし、話すときは自分の方を見て話してほしいと言っていました。
「そのときは解らなかったのですが、アダムは私たちの唇の動きを読もうとしていたのです」とお母さんは言います。
アダムの奇妙な行動も、耳が聞こえていないことから来ているとご両親は思いました。
3歳半になったときに言語療法を受け始めましたが、週に2回の治療でもあまり改善は見られませんでした。6歳になるころには、アダムはあらゆることに問題のある状態でした。耳がよく聞こえないし、他人にわかるように話すこともできませんでした。
勉強もうまくいかず、動きもぎこちないものでした。いろいろと検査をした結果、アダムは重度の学習障害であると診断されました。
医師からは「しばらく様子を見ましょう」と言われ、多動に関しては薬剤療法をおこない、最終的には施設に入れて、特別な環境に置くことを勧められました。もうアダムのための解決策はないと思われたとき、知り合いからグレン・ドーマンが書いた「親こそ最良の医師」が送られてきました。
この本に書いてあることに納得したご両親は、人間能力開発研究所に連絡を取りました。人間能力開発研究所のプログラムを全面的に受け入れたご両親は、毎日我が子を救うためにちからを尽くしました。
聴力を改善するための聴覚刺激のプログラムや、協調とバランスを改善させるための運動プログラムをおこない、読むことも教え始めました。それからの2年間で、アダムは読んだり書いたりが上手にできるようになりました。
聴覚も話す能力も大幅に改善されました。
かつてぎこちなく動いていた少年は、ペンシルベニア州の水泳チャンピオンになりました。
ヴァイオリンとピアノも演奏できるようになりました。
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」に、役者として出演しました。
素晴らしいアスリートになりました
運動面では誰が見ても優秀です
水泳を極めただけでなく、アダムは運動全般において競技選手レベルになりました。
幼い子どものころに吸収するチャンスのなかった情報を吸収し始め、人間能力開発研究所のなかにあるインタナショナルスクールに推薦入学し、英語、日本語、自然史、シェイクスピア、歴史、コンピュータ、数学、音楽、ヴァイオリン、体操、水泳、ランニング、自転車などを、幅広く、楽しく学びました。
インタナショナルスクールを卒業しました
進学したハイスクールでは、優秀な生徒のためのコースに入り、学校のフットボールチームでも活躍しました。
大学でもしっかり勉強しながら、フットボールを続けました。
大学卒業後、特別な支援を必要とする子どもたちの教育に関心をもちました。
このころに結婚相手に出会い、さらに教育学の修士号を目指しました。
現在アダムは結婚して、素敵な女の子のお父さんになりました。
アダムとお母さん
何をやってもうまくいかなかった少年が、立派に成長して夢を実現させました。

現在は、生徒が直面している困難を理解できる教師になっています。
アダムは言います。
「リスクを冒すのは、人生の一部です。
避けてばかりいたら、自分の選択が正しかったかどうか、永遠に答えは出ないでしょう。」
 

教えることで社会に貢献しています
お母さんは言います。
「私が学んだことでなによりも重要なのは、親こそが答えであるということです。
するべきことを実際にするかどうかは、親しだいなのです。
人間能力開発研究所から得ることができた情報は、まさに私が探し求めていたものでした。
親としてしなければならないことだったのですが、この経験に替わるものは存在しません。
今でも毎日、あの時のおかげだと思えることがあるのです。」
アダムと家族