トリソミー21(ダウン症)フランチェスコのサクセス・ストーリー


トリソミー21?

 ダウン症? 

それとも素晴らしき成功者?

 

診断名で人生は決まらない

 

 

フランチェスコは生まれた時にダウン症と診断されましたが、この診断名が無意味なものとなってから何年も経ちます。
フランチェスコがイタリアで生まれたときご両親が告げられたのは、この子は歩けるようにはなるだろうけれども非常に時間がかかる、話せるようにはなるだろうけれどそれには大きな困難が伴う、そして読み書きはおそらくできるようにはならないだろうということでした。
ご両親はその予測を受け入れず、人間能力開発研究所の「あなたの脳障害児になにをしたらよいか」コースを受講しました。
その後フランチェスコが生後15か月のときに、集中プログラムに参加しました。

本格的な集中プログラムが始まりました。
フランチェスコは運動面を向上させるためのプログラムや、知性面の可能性を求めての読みのプログラムを毎日おこない、さらにできる限り良い栄養状態を維持するために、ご両親は食生活にも細心の注意を払いました。

 


赤ちゃんのフランチェスコに
お父さんが読みを教えます

 

アリオさん一家は、家族みんなでプログラムに取り組みました。
ご両親は言います。
「私たちは決意と熱意をもち、互いに協力してプログラムをおこないました。
その結果、プログラムを手伝ってくれた両親や祖父母との絆がより強いものになりました。」

運動プログラムで頭上梯子の下を歩くフランチェスコ

 

プログラムをおこなううちにフランチェスコは急速に目覚ましい進歩を遂げました。
年齢が小さかったにもかかわらず、すぐに読めるようになりました。
しっかりと歩いたり、走ったりできるようになりました。
言語も急速に、着実に進歩していきました。

書くことができるようになったのはまだ4歳の時でした

 

5歳になったフランチェスコは同年齢の子どもと一緒に学校に行っても大丈夫だと、ご両親は判断しました。
「プログラムによって、フランチェスコの知的な可能性が、いろいろな面で花開いています。
読むことが大好きで、いくらでも読みたがります。」
ご両親からそのように報告がありました。
知性面のプログラムだけでなく、運動面や生理面のプログラムが、全体的な発達を後押ししました。

 

プログラムを始めた当初から、ご両親はフランチェスコに大学を卒業させたいという目標をもっていました。
「プログラムを始めたとき、それは夢でしたが、今では現実になりました。
研究所を訪れるたびに作成されるフランチェスコのためのプログラムを信じて、着実に忍耐強く続けてきた結果です。」

フランチェスコとグレン・ドーマンお互いをヒーローと認め合っていました

 

何年か経ち、22歳になったフランチェスコが経済学の学位を取得したとき、お母さんは息子の将来に対して告げられた予測の厳しい言葉を思い出し、ここまで達成したことは驚嘆に値すると思いました。
お父さんはグレン・ドーマンの言葉を思い出しました。
グレンは「この道を進んでいけば、フランチェスコの行く先には大学があるよ」と言って、励ましたのです。

グレンの予測どおりとなった卒業証書はフランチェスコの誇りです

 

フランチェスコは家族と一緒にローマでテレビ番組に出演し、人間能力開発研究所のプログラムがフランチェスコにどれだけの助けとなったかを話しました。
その結果、イタリア全土からプログラムについての問い合わせがありました。
ご両親はフランチェスコの話が「わが子を救うために暗闇で手探りしている家族」の役に立つことを願っています。
2006年の冬季オリンピックがトリノで開催されたとき、フランチェスコが聖火リレーに参加したことは、家族にとっては感動的な出来事でした。

2006年トリノでの冬季オリンピックの開会式に向けて聖火を運ぶフランチェスコ

 

現在フランチェスコは人材会社で働いています。
職場へは電車で通い、同僚ともうまくいっています。
今特に楽しんでいるのがボートで、週に3回夕方にチームに加わって練習しています
Francesco9体調を整え健康を保つための努力も続けています
フランチェスコは、人間能力開発研究所のスタッフや、世界各地のご家族の励みとなる存在です。
トリソミー21は個人のもつ可能性を決めるものではないことを、何回となく教えてくれているのです。