セバスチャンはベルギーのブリュッセルで生まれました。
父親はコロンビア人、母である私はメキシコ人です。
帝王切開による出産でした。
生まれた瞬間、すでに呼吸に雑音があることが医師から告げられ、新生児治療室で様々な検査がおこなわれました。
その後ほぼ1か月入院していました。
小児科医による診断は喉頭軟化症でした。
生後8か月のセバスチャンは、クッションで支えないと座っていられませんでした。
医師からは精神運動刺激療法を始めるように勧められました。
生まれてから1年間は、家庭で無呼吸をチェックするモニターを使用しました。
自力で歩き始めたのは1歳10か月のときでした。
3歳になったとき、セバスチャンが話せる単語は10語ほどでした。
神経科で様々な検査を受けても、はっきりした診断は出ませんでしたが、人間能力開発研究所のことを知っていた心理学専門家から、言語の発達を促すためのプログラムを勧められました。
私たちはメキシコシティーで「あなたの脳障害児になにをしたらよいか」コースを受講し、その後まもなくセバスチャンを連れてフィラデルフィアの人間能力開発研究所を訪れました。
当時私たちはまだブリュッセルに住んでいました。
住まいから70メートルほどのところに、市街地としてはヨーロッパでは最大級と言われる森がありました。
ここが私たちの第二の家になりました。
この森で歩き、走り、自転車に乗り、スケートをしました。
家族としての力をより強くする助けとなった重要な変化と試練のときだったことは確かです。
セバスチャンの姉は、弟の力になりたいという気持ちと強さと愛情に後押しされて、高ばい、腹ばい、ランニングなど、弟のプログラムの多くを一緒にやってくれました。
70歳のおばあちゃんも一緒に腹ばいをしてくれました。
平日は仕事で過ごしているお父さんも、週末にはプログラムをしてくれました。
その間、母親の私は知性のプログラムの教材をつくりました。
ホームトリートメント・プログラムに最大限の力を注ぎ、セバスチャンが7歳になったときには、人間能力開発研究所のプロファイルのすべての分野で最高のレベルに達しました。
読みや数学に優れ、テニスもできるようになっていました。
人間能力開発研究所のホームプログラムをやめても大丈夫と私たちが確信できるようになった8歳まで、セバスチャンはホームスクーリングで学びました。
その間私たちは研究所で学んだことに沿って日々を過ごしました。
その後セバスチャンはベルギーの小学校の3年生として初めて学校に入り、同年齢の子どもたちと一緒に学び始めることになりました。
4年後、ブリュッセルのジャン・モネというフランス系のインターナショナルスクールリセで高校生活が始まりました。
それから1年経ってメキシコに戻ってからは、メキシコのフレンチ・リセに入学しました。
話し方はまだ十分にすらすらとは話せませんが、演劇グループに参加すると自分で決め、高校の最終公演では15分もの長い台詞をしっかりとこなしました。
人間能力開発研究所が設定した明確なゴールを次々と達成し、強い意志をもって粘り強くプログラムを続けてきたセバスチャンの夢は実現間近です。
留学のためにカナダで英語に磨きをかけていたセバスチャンは、オランダのライデン大学で学ぶためにカナダから帰国し、来年からは大学で考古学を学ぶ予定です。
セバスチャンが今あるのは、人間能力開発研究所のおかげで、たいへん感謝しています。
話すことのできなかった3歳の少年が、現在は3か国語を使う自立した青年となり、考古学者としての道を歩もうとしているのです。