今から13年ほど前、息子のヘンリーが生後7週間のとき、ポートランド病院で聴覚の再検査を受けました。
生後数日目に受けたこの検査の結果に問題があったためです。
最初に検査を受けた病院で、医師から念のためということで再検査を進められたので、私は全く心配していませんでした。
しかし、ポートランド病院の耳鼻科の医師による再度の検査の結果、さらに詳細な検査を受けることになりました。
このときも、普通の検査ですから心配はいりませんと言われました。
私はヘンリーを有能な専門家の医師に委ね、検査は始まりました。
思ったより時間がかかっていたので、駐車違反の罰金をとられないようにメーターに追加料金を入れに行かねばなりませんでした。
私が部屋を出るとき、みんな笑顔で話をしていて、明るい雰囲気でした。
ところが、駐車場から戻ると、部屋の空気はがらっと変わっていました。
この時のことは今もはっきりと覚えています。
誰も私と目を合わそうとしませんでした。
私はヘンリーを抱いて、別の部屋に案内されました。
耳鼻科の医師は言いました。
「ヘンリーの検査をおこないました。
耳は聞こえていませんが、心配しないで。
今は耳が聞こえなくても良い仕事に就いている人もいますから。」
その言葉を私は飲み込めないでいました。
状態が変わる可能性、つまり聞こえるようになることはあるのだろうかと私は質問しました。
「聴覚が改善することはありません。悪化するだけです」というのが答えでした。
検査に何か間違いがあった可能性はありませんか、再度検査をすることはできますかと私が尋ねると、「いいえ、違う結果が出ることはないでしょう。耳が聞こえていないのは確かです」という返事でした。
医師の言うとおり、ヘンリーは耳がほとんど聞こえていなかったのです。
補聴器を使うことになり、聴覚専門家のもとで何回も試してみては調整を繰り返しましたが、ヘンリーの耳の成長が早く、補聴器がすぐに合わなくなって雑音が発生するようになり、その度に調整が必要になったのですが、調整自体が小さな赤ん坊にとっては苦痛で不快なことでした。
数年前、友人夫妻から人間能力開発研究所のことを聞いたことがありました。
友人の息子さんは生まれつき麻痺があり、言葉も話せませんでしたが、人間能力開発研究所のコースを受講して学んだプログラムの効果があって、クラスの子どもたちに追いついていったということでした。
その子は今23歳になっていました。
イートン校で学年トップになり、オックスフォード大学で物理を学び、私には何やらさっぱりわからない、非常に高度な分野で博士課程に進んだと聞きました。
話をするのも実に上手で、さらにボート選手として活躍していました。
私は迷わず人間能力開発研究所に連絡し、息子を助けることができるかどうか尋ねました。
答えは、耳が聞こえないことの原因が、耳自体の問題ではなく、脳に障害があるからであれば、できることはあるということでした。
息子は内耳に問題があるようでしたから、私はそれ以上先へは話を進めませんでした。
そしてこれまでとは別の聴覚専門家や医師に診てもらいながら、ヒーラーや頭蓋オステオパシーの治療も受けました。
どこに行っても、難聴を含む症状に関する検査がおこなわれました。
頭蓋オステオパシーの療法士は、ヘンリーの脳には別の問題もあるため、歩けるようになるかどうかは疑わしいと言いました。
その言葉を受けて私は小児神経科の医師にアドバイスを求めました。
医師は、ヘンリーの頭囲が身体の成長に伴う成長を見せていないこと、身体が硬いこと、早期にこのような兆候が見えているということは、聴覚の問題に加えて、ゆくゆくは何らかの脳神経的な問題が発生することになるだろうとも言われました。
息子には「発達遅滞」という診断がくだされました。
勧められるままに週に3回の理学療法を受けましたが、息子のうえに変化を起こすには十分ではないように感じました。
この医師に、フィラデルフィアに素晴らしい場所があると聞いていると言ったところ、医師はそこでやることは効果がないだろうし、プログラムをおこなうことで「家族が崩壊する」とも言いました。
私は再度人間能力開発研究所に電話を掛けました。
力になれるだろうという返事でしたので、すぐにコースに申し込みました。
その間も、聴覚、言語療法、医師、オステオパシー、理学療法などの予約を取ってあり、多い日には1日5か所に行ったこともありました。
私たちが「あなたの脳障害児になにをしたらよいか」コースを受講したとき、ヘンリーは生後9か月でした。
私たちだけでなく、他の誰も、ヘンリーのことをここまで細かく観察したことはありませんでした。
観察の結果、注目すべき特定の問題が見えてきたのです。
観察と評価の過程で私たちは、ヘンリーが熱い、冷たい、痛いなどの反応を全くしてないことに気づきました。
これに対して人間能力開発研究所のスタッフも、何らかの脳障害があることは明らかで、聞こえないのもそのためかも知れないと思ったようです。
腹ばいや高ばいをしやすいように、傾斜板を作りました。
食べさせるものはすべて量り、研究所のアドバイス通りにしました。
他の治療法はすべてやめました。
今まで訪れた専門家たちには、人間能力開発研究所のプログラムのことは全く話をしませんでした。
話したところで無視されるだけならともかく、最悪の場合は邪魔をされるかもしれないと恐れたからです。
これまでとは違う毎日になりました。
読みのカードと本は夜つくることにしました。
できる限りプログラムを一日中、毎日おこなうように最善を尽くしました。
近所に住む女性が二人、パタニングの手伝いに来てくれました。
上の娘たちは6歳と4歳でしたが、夫とともに週末や夕方のパタニングを手伝い、みんなパタニングのエキスパートになりました。
ヘンリーは11か月で高ばいを始めました。
高ばいの目標は1日800メートルでしたから、それからは何をするにも高ばいで動くように促しました。
1歳3か月のときに歩き始めましたが、始めたころのことを思うと奇跡だとさえ感じました。
プログラムはとてもたいへんでした。
特にヘンリーが外を歩く練習をするときは、後ろから追い抜いていく人たちの舌打ちが聞こえて、つらい思いをしました。
毎日休まずに続けるように、私たちは常に自らを奮い立たせなければなりませんでした。
ヘンリーが1歳になったとき、聴覚検査の結果が届き、遺伝子の異常のため、内耳にある蝸牛骨に問題があるということでした。
聞こえないのは、発達遅滞とは別の、耳の問題だったのです。
補聴器を試してみたものの効果がなく、1歳2か月のときに蝸牛骨のインプラント手術をし、術後の回復に時間が必要だったため人間能力開発研究所に行く予定は先に延ばしになりました。
回復後すぐにプログラムを再開し、聴覚刺激のプログラムを開始しました。
これは人間能力開発研究所のプログラムで、新生児レベルだった聴覚機能を、完全な理解力を身に着けるところまで発達させるものです。
ヘンリーは1歳6か月になり、再び人間能力開発研究所を訪れたのですが、以前とは違う子どもを連れてきたのでは・・・とまで言われました。
ヘンリーは「正常」の範囲内に入っていて、グラジュエーション・トゥー・ライフ(プログラム卒業のひとつ前の段階)となりました。
この日は私の人生で特別な日になりました。
パタニングはやらなくなりましたが、読みのカードと手製の本はその後2年ほど続けました。
4歳のときに、2回目の耳骨インプラントを受けました。
5歳で学校に通い始めるころには、話す、聞く、運動などはあらゆる面で少なくとも同年齢レベルに達していました。
良く聞こえないという問題があったので、読みに関しては他の子どもたちと同じ速さで進歩することはないだろうと思っていました。
しかし今になって、二人の姉たちと比較してみると、ヘンリーが読んだものを吸収し、処理し、情報を記憶する能力があることは、疑問の余地がありませんし、数に関する能力も、姉たちよりも優れ、処理のスピードも上回っています。
姉たちは、なぜ自分たちにもプログラムをやってくれなかったのかと、私に不満を漏らします。
物事を学び取ることは簡単ではないし、努力を要することだと気づいたからです。
ロンドンの有名私立小学校に入学を許されたことは驚きでした。
応募した子どもたちは、家庭教師をつけ、何か月も前から準備をしていたのですが、私たちはヘンリーに特別のことをしていませんでしたから。
さらにイートン校に入学を許されたことは、これを上回る嬉しい驚きでした。
喜びながらも私は心を落ち着かせ、息子がこれまでに辿ってきた長い道のりを思いました。
なんという並外れた旅だったことだろう、誰に感謝すべきなのだろうと。
スキー、フットボール、テニス、水泳、登山などが好きですが、ブレキエーションの達人であることは言うまでもありません。
歌、踊り、演劇も楽しんでいます。
学業での苦労はほとんどなく、友人もたくさんいます。
プログラムをしていたのは、はるか昔のように感じられます。
「ヘンリーを健常にしてくださるならば、もう何についても、誰のことも、一生の間、決して文句を言いません。完璧な人間になるつもりです」と私は神様に約束していました。
残念ながら私は自分が申し出た約束を忘れることがよくあります。
しかし、人間能力開発研究所がヘンリーのためにしてくれたこと、家族としての私たちにしてくれたことは、決して忘れることはないでしょう。
普通の人生と、大きく開かれた将来という贈り物をくださったのですから。