ピエールの サクセス・ストーリー 出生時の外傷を乗り越えて


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現在のピエール

 

ピエールの素晴らしいサクセス・ストーリーをご紹介したのは1年以上前のことです。
最近になってご家族から近況報告がありました。
ピエールはまわりも驚くような成功をずっと続けています。

ピエールはへその緒が首に巻きついた状態で生まれてきました。
出産は結局帝王切開になりました。
最初は特に問題ないようでしたが、数時間後に呼吸が止まり、発作を起こしました。

お母さんは言います。
「その日、しばらくすると、わが子は生まれてきたときとは似ても似つかぬ姿になっていました。
左手は親指を中にして握りしめ、左足にも歪みが見え始めました。」

ピエールは肢体不自由者として一生を過ごすことになるだろうと告げられました。
発作と学習障害もついて回るとのことでした。

 

 

 

 生後6時間のピエール

 

生まれて2日目、いろいろな検査がおこなわれ、大脳に大きな血栓があることが確認されました。
その範囲が広いため、ピエールは肢体不自由者として、さらに発作と学習障害を伴って、一生を過ごすことになるだろうと言われました。

 

 

 左手も湾曲していました

 

 

間もなく私たちは奇跡を求める旅に出ることになりました。

お母さんは言います。
「アフリカの田舎町の小さな家に、わが子をやっと連れ帰ることができました。
くだされた診断と予後予測に打ちのめされ、行き所のない思いを抱えたままでした。」

「ある日、夫が偶然にジンバブエの友人から、人間能力開発研究所のことを聞いたのです。
間もなく私たちはフィラデルフィアへ行く飛行機のなかにいました。
でも、脳が傷ついた息子のために何かできることがあるのかどうかは、まったくわからないままでした。
ただ奇跡を求めていたのです。」

「あなたの脳障害児になにをしたらよいか」コースを受講して、帰ってきました。
まだたった9か月だったピエールのために、私たちは、学んだことをすべて、すぐに行うことにしました。
ピエールは夜寝るときも、常に床のうえで過ごすことになりました。
親類たちの手を借りてパタニングも始めました。
呼吸を改善する酸素量強化のプログラムもしっかりとおこないました。」

 

 

床の上できるだけ長くいるとが
ピエールの運動面の発達には欠かせないことを
ご両親は理解していました

 

「ピエールが初めて腹ばいで部屋から出て行ったとき、私たちはお祝いをしました。

これまでずっと床の上で過ごしてきたのです。
両手両膝で体を支えて高ばいができるようになると、1日の高ばい距離を増やすために、いろいろなゲームをしました。
起きている時間はすべてプログラムのために使いました。」

「歩けるようになると、次はその距離を伸ばすことが目標になりました。
途中でゲームをしながら1マイル(1.6キロ)歩けるようになるのに時間はかかりませんでした。」

 

 

 

上手に歩けるようになり
間もなく走れるようになりました

 

じきに走れるようにもなりました。
ぶら下がりができるようになると、頭上梯子を始めました。
2歳、3歳の子どものなかで、ピエールほど身体がしっかりしている子どもはいないとさえ思えるようになりました。」

「他の子どもたちがどんどんと成長していくのを見ると、心が乱れることもありましたが、ピエールも着実に壁を乗り越え前進していました。
親である私たちとピーエル自身の頑張りで、一歩ずつの着実に成長しました。
ピエールは発達段階をひとつずつ上にあがっていったのです。」

「4歳になるころには、ピエールは普通の子どもと変わりなく見えるようになりました。
5歳では、運動面の発達は年齢レベルになり、6歳では、体操競技で勝利を収めるようにもなりました。

 

 

競技会では常に優勝しています

 

 

「小学校での成績は常にクラスの上位10%に入りました。

早いうちから読みと算数をやっていたおかげだと思います。
同じ学年の子どもの中では、常に数少ない「読書の達人」の一人です。
先生方は、ピエールが幼児期に脳に大きな障害を受けていたことに気付きませんでした。」

「学業でも運動でも、様々な賞を獲得してきました。
『成績優秀者トップ10』や『今年のベストアスリート』にも名を連ねています。
王立音楽アカデミーにより、全国レベルでの第一ヴァイオリンとして認められています。
合唱団で歌い、ヴァイオリンとピアノを演奏しています。」

 

 

トロフィーの棚に
またひとつ新しいものが加わりました

 

 

 

 

「男女を問わず友人の間で人気があります。
ピエールと友だちになりたいと思う人がたくさんいるのです。
ピエールは小さいころから、弱者をいじめから守る人と先生や友人たちから言われていました。
必要とあれば立ち上がり、力ずくでもいじめられている子どもを助けていたのでした。」

「ラグビーチームのキャプテンもしています。 私たちは病歴から見て、ラグビーのような身体的接触の激しい運動には反対したのですが、ピエールは諦めませんでした。 ここでもしっかりと役割を果たし、今のところ怪我などはしていません。」

英語、フランス語、南アフリカ共和国などで普及しているアフリカーンス語と、3か国語を話します。 引き続きヴァイオリンも楽しんでいます。 

 

 

 

高校卒業後、軍に入ることにしました。
フランス外人部隊でキャリアを積もうと思ったのです。
しかしそのためには難関を突破しなければなりません。
ピエールが応募したときは、世界各地から953人の応募がありました。
そして合格した候補生45名の一人となったのです。
ピエールはそれで満足せず、さらに最高精鋭部隊であるパラシュート部隊に応募したのです。
ピエールを含めて採用されたのはたった9人でした。
パラシュート降下20回を完了し、先日、パラシュート部隊のウイングバッジを授与されました。
戦時中パラシュート部隊にいたグレン・ドーマンがこれを知ったら、誇らしく思うことでしょう。

 

 

パラシュート部隊の
ウイングバッジを授与されました

 

これまでの成功に加え、山岳戦闘スペシャリストに認定され、軍用スキー登山者の資格も獲得しました。
フランス国民を守ったおこないで、これまでに2回功労賞を受賞しています。

これは、生まれたときに困難な人生が待っていると宣告された若者の話です。
しかし、追い求めたことのすべてで次々に成功し、人生を楽しんでいます。
今この若者は、人々の命を救い、世界をより良い場所にすることに、その知識と能力を活かしています。
素晴らしい成功を収めているピエールとご両親に、心からお祝いの言葉を送ります。