片麻痺・学習障害 ニハトのサクセス・ストーリー


 

健常への道のゴールイン!

生まれたときは何も問題がありませんでした。
生後5か月で突然病気になり、機嫌が悪く無気力になり、熱が出て、ひどい嘔吐が始まりました。
医師たちは最初、これは歯が生え始めてきた影響だと思いました。
しかしニハトの状態ははるかに深刻で、検査入院の結果、結核性髄膜炎であることがわかりました。
そのために頭蓋内圧が上昇し、水頭症を引き起こしていたのです。
緊急手術でシャントを入れ、脳圧を下げる必要がありました。
こうして命は取り留めましたが、髄膜炎により脳が圧迫されたため、左半身が完全に麻痺してしまいました。

 

左半身に硬直、麻痺がありました

ご両親は治療法を探し始めました。
小さなニハトは、従来からあったさまざまな療法を受けましたが、成果はあまり見られませんでした。
ニハト自身こう言っています。「残念ながら、問題の解決にはほとんど役に立ちませんでした。
両親がフィラデルフィアの人間能力開発研究所で開催されている《あなたの脳障害児になにをしたらよいか》というコースを受講したとき、私はまだ10歳でした。」新しくプログラムを開始したとき、ニハトの左腕は硬直して、つねに身体に密着していました。
短い距離であれば歩いたり走ったりできましたが、身体の協調が悪く、動きがぎこちないので、他の子どもたちといっしょにスポーツを楽しめる状況ではありませんでした。知性面では読むのが遅く、内容も年齢レベル以下のものを読んではいましたが、かなりの努力を要したため、読むこと自体が嫌いでした。
書くことはできましたが、大嫌いで、書きたがりませんでした。
身体の左側の触覚は鈍く、このようにさまざまな問題を抱えていました。

 

お父さん、妹と一緒

ご両親は、ニハトの運動機能全体にはたらきかけようと、直ちに腹ばいと高ばいの運動プログラムを始めました。
知性面のプログラムにもちからを入れ、読み数学のほか、ビッツカードを使ってこの世界についての知識をたくさん与えました。
ニハト自身、プログラムを始めて2週間で自分でも変化するのを感じたと言っています。プログラムを始めてすぐに大きな進歩があったことを、お母さんは覚えています。「大変な一日を過ごし、疲れ果てたニハトは、私の肩に頭を乗せて横になっていました。
ふと見ると、ニハトの左手のちからが抜けて開いているのです。
一瞬目を疑いました。
これまで10年も握りしめたままだったのですから。
私たちは興奮しました。
プログラムは本当に効果があることが証明されたのです。
だからこそ私たちは、プログラムを続けようという意欲をいつまでも持っていられたのです。」

 

あらゆる面で向上していきました

ニハトの進歩は続きました。
その時々の状態に合わせて注意深く作られた、脳の成長と発達をうながすための栄養のプログラムもおこないました。
ニハトは言います。「プログラムは運動面、知性面、栄養面、生理面での状態に焦点を合わせたものでした。
そしてバランス、スタミナ、筋力、協調、視覚、感覚機能など、すべてが大きく向上していきました。」身体能力をさらに向上させるために、ランニングのプログラムも加わりました。
有酸素プログラムとして毎日ランニングすることによって、脳への酸素の供給が改善され、脳の機能も向上していきました。
体調を整え、運動面の機能をさらに伸ばすために、ランニングは欠かせないものでした。
ニハトが今でもランニングが大好きなのは、このころから始まったことでした。

 

大好きなランニングは今も続けています

知性面でも向上しました。
読むことも書くことも大嫌いだった子どもが、知性のプログラムが大好きになったのです。
読むスピードが上がり、当然ながら読んだことを理解できるようになりました。
一日のなかで頑張ってプログラムをしたご褒美として、読む時間をもらえるのはとてもうれしいことになりました。プログラムを4年間おこなってきたニハトは、別人になりました。
年齢レベルの本を読むことを毎日の楽しみとするようになりました。
また、年齢レベルの到達度を確認する標準テストでは90~100%の成績でした。
同学年の子どもと同じレベルで代数の勉強も始めました。
左半身の麻痺のも、かなり改善しました。
部屋の端から端まで片足跳びができるようになり、ノンストップで45分間走ることも、楽にこなせるようになりました。
周囲の大人たちは、ニハトは精神的におとなで、知的に高度な会話を交わすことができるといった感想を述べています。
書くこともとても上手になりました。ニハト自身は、もう学校へ行っても大丈夫という自信を得ましたが、ご両親にはまだ心配が残っていました。
このときを振り返ってお母さんは言います。「私たちはとても心配でしたが、ニハトの決意は固まっていました。
8年生で学校に復帰し、2年前にはIGCSE(義務教育修了資格試験)に合格しました。
ラッフルズ・デザイン・インスティテュートに進学し、インタラクティブ・マルチメディア・デザインで学士号を取得しました。」大学に入ったニハトは、再びランニングを始め、距離をどんどん伸ばしていきました。
そして、マラソン完走という新しい目標を立てました。
走ることで癌のための基金を集めることにしたのです。
その目標を達成し、その後もそれぞれに目的をもって何回もマラソンにチャレンジしました。

 

ニハトの凱旋 シンガポール・マラソンを完走

癌の基金集めというニハトの計画は注目を集めました。
そしてニハトがここまでたどり着いた、信じがたいほどの人生の旅についての記事が、最近スポーツニュースのウェブサイトに掲載されました。
下記のアドレスをクリックすると、読むことができます。(言語は英語)http://www.sportskeeda.com/running/interview-marathoner-nihad-panju-never-give-up-running-dreams人間能力開発研究所のプログラムをおこなった経験について、ニハトは次のように述べています。「プログラムは全体的に働きかけるものです。
構成要素のそれぞれが、脳の編成には欠かせないものなのです。
私は知性のプログラムが大好きでしたが、現在の私の状態に最も大きな影響を与えたのは、運動のプログラムです。
小さいときにプログラムを始めたので、正確に思い出せないこともありますが、私が今こうして普通に生活できているのは、グレン・ドーマンと人間能力開発研究所のスタッフのおかげであることは確かです。」