誕生から現在までマティアスがたどった道を
お父さんが語ります
二人目の子どものマティアスは、私たちの目には何の問題もないかわいらしい赤ちゃんでした。
予定より1か月早く生まれましたが、アプガー指数は10点満点で9点でした。
ところが生後3週間目に低酸素症に陥りました。
ひどい肺炎を起こしたのか、誤嚥があったのか、私たちにはわかりません。
思い出しても恐ろしいことですが、過去は過去として、私たちはとにかく先へ進むことにしました。
マティアスは赤ちゃんらしい赤ちゃんでした。
1歳の誕生日を迎えるころには喃語が出始めましたが、単語にはなっていませんでした。
私たちはこれを特に心配はせず、そのうちに話すようなるだろうと思っていました。
話したくて仕方がないのに私たちが理解できないので、マティアスの欲求不満は増すばかりでした。
マティアスの兄だけは、弟の発する音声をいくつか理解できているようで、弟のための「通訳」の役割を果たしてくれました。
しかしマティアスが2歳を過ぎたころ、私たちの心配は大きくなりました。
話ができないだけでなく、記憶することもできないようなのです。
色や動物の名前なども覚えられませんでした。
神経科医、聴覚専門家、言語療法士などあちこち訪ね歩きましたが、マティアスに効果は見られませんでした。
様々な方法の治療を受けましたが、1年以上経ってもマティアスの状態は変わりませんでした。
進歩が見られないことだけでなく、マティアスの健康状態がとても悪く、特に呼吸器系が弱いことが気がかりでした。
それでも私たちは諦めず、さまざまな医師を訪ね、さまざまな治療法を試みました。
インターネットで探しているとき、ふと目に入ったのが「あなたの脳障害児になにをしたらよいか」という本でした。
母親のエールは、もしかしたらマティアスは脳障害なのかもしれない、単に話ができないというだけでないのかもしれない、これまで自分が学校で学んできたことは役に立たないのかもしれない、と感じたのです。
妻はメキシコのアグアスカリエンテスでコースを受講しました。
あるスタッフが、コースの1週間はマティアスの人生の中で最も重要な1週間になるはずだと言いましたが、まったくその通りでした。
コース後、私たちの人生はすっかり変わったのです。
メキシコでコースを受けて帰宅した妻が、マティアスは脳障害だと思うと言ったとき、まず私はかなりの疑いを持ちました。
恐ろしい言葉でしたし、ショックを受けた私は否定しようとしていました。
プログラムをするために妻がカイロプラクターの仕事を辞めると言ったとき、私は本気だと感じました。
妻は研究所の指導を受けながら家族でプログラムを始めました。
こうして6か月間プログラムおこなうと、かなり効果がありました。
マティアスは3歳になっていましたが、生まれて初めて言葉を発したのです。
驚くべき進歩です。
次の段階はフィラデルフィアの人間能力開発研究所に行って、さらなる改善を目指してプログラムを続けることでした。
しかしマティアスを連れて人間能力開発研究所に行くには父親もコースを受ける必要があると言われ、その通りにしました。
こうして私たちはマティアスを研究所に連れて行き、機能評価を受けることになりました。
集中プログラムを始めることになり、マティアスに擁護者がつきました。
プログラムがうまくいっているかどうか、マティアスがいつの日か卒業できるようになるための道を辿っているかどうかを見守ることが擁護者の責任です。
希望が生まれ、障害のある子どもを助けるためにできる限りのことをしていると確信できて、私たちはやっと普通に眠れるようになりました。
メキシコに帰って、家族としての毎日は180度変わりました。
プログラムのスケジュールは厳しいものでした。
言うは易く、行うは難しです。
本当に大変なスケジュールで、家族や親類の手助けがなければプログラムはできなかったでしょう。
祖父母は様々な局面で助けてくれましたし、いとこや友人たちはビッツカードを作ってくれました。
叔母たち、叔父たちは運動プログラムに手を貸してくれました。
しかしプログラムのほとんどをしていたのは母親でした。
食生活も厳しく管理しました。
長男のファビアンは私たちを助けてくれる守り神のような存在でした。
毎日昼も夜も、マティアスと一緒に腹ばいや高ばいをし、目標を達成するために手伝ってくれました。
何よりも大変な仕事なのに、ファビアンはごく自然にふるまい、ほかのみんなはどれほど助かったことでしょう。
集中プログラムを始めてからのマティアスの進歩には、目を見張るものがありました。
病気をしなくなったことは、最も重要な成果です。
気がかりだった薬を飲まなくてよくなりました。
生まれて初めて、マティアスは健康に過ごせるようになったのです。
人間能力開発研究所からは健康のヴィクトリーをもらいました。
それだけでなく、まるで魔法にかかったように、マティアスは突然話し始めました。
大人のような難しい言葉を使い、記憶力も非常に良くなりました。
算数が大好きになり、様々なことに興味を持つようになりました。
そして、マティアスは社交的で、愉快で、前向きな子どもになりました。
8歳の誕生日を迎える前のある日、擁護者の中谷内美紀から、プログラムの次の段階は学校に行くことだと知らされました。
初めて学校に行かれるレベルに達したのです。
私たちは驚きました。
マティアスの成長と安全と幸せは、人間能力開発研究所という傘に守られているものと思っていたのです。
その傘から外にでることは恐怖でした。
ところがマティアスは違いました。
外の世界に身を置く準備は十分にできていたのです。
息子が初めて学校に行った日のことを母親は決して忘れないでしょう。
マティアスは早起きして制服に着替え、カバンを背負って、すぐにでも学校に行こうとしていました。
お母さんから離れて独りで世界に出ていく試練のときに、目を輝かせていました。
マティアスはさまざまな苦労を乗り越え、学校に通いました。
脳神経科の名医たちに、マティアスには決してできないだろうと言われてきたことです。
間もなく20歳になりますが、大学に進み経済学の勉強を始めます。
何事も中途半端にせず、責任感に溢れ、思いやりのある愛すべき人物です。