マテオのお母さんからの手紙を紹介します。
妊娠37週間に帝王切開で生まれました。
9か月までは、他の赤ちゃんと同じように、すくすくと成長していると思っていました。
ところがこのころから意味のある声を出さなくなり、目を合わすこともなくなりました。
私も夫も、子どもの発達は一人一人違うのだと思っていましたし、小児科医からも特に何も言われなかったので、様子をみようということになりました。
1歳2か月になるころには、人込みを嫌い、言葉が出なくなり、名前を呼ばれても反応せず、人と目を合わせず、反復行動が出始めました。
マテオの症状はすべて 自閉症スペクトラムにあてはまりましたが、医師から「危険信号」は発せられていませんでした。
しかし、こういう症状が出るのは刺激が足りないせいかも知れないと私たちは思い、マテオを保育園に入れることにしました。
マテオはその時1歳11か月でした。
先生の目には、マテオの発達の遅れがはっきりと見えていたようです。
名前を呼んでも反応がないし、簡単な指示が理解できない、あるいは指示に従えない状態でしたから、ちゃんと聞こえているのかどうか、聴覚検査を勧められました。
保育園では何かに興味を示したり、周りの子どもたちとかかわったりすることもなく、ほとんどの時間を床の上で過ごしていました。
言葉も出ていませんでした。
マテオの先生のひとりが「フィラデルフィア・メソード」なるもののことを何回も話してくれましたが、私たちはそれが何なのか知ろうとさえもしませんでした。
聴覚検査に異常がないため、今度は神経科で診てもらうように勧められました。
勧められたとおりにMRIと脳波検査を受けましたが、どちらにも異常はありませんでした。
このとき神経科では言語の 発達遅滞と診断され、薬剤の投与が始まりました。
これについて二人の小児科医にアドバイスを求めたところ、どちらも薬は飲み続けるのがいいという意見でしたので、私たちはそれに従いました。
言語の発達と集中力の向上に効果があると思われた薬剤を二種類服用し始めました。
しかし6か月経っても効果は見られませんでした。
2歳6か月になっても、言葉は出ませんでしたし、理解力も全くなく、簡単な指示にも従えず、手にものを持たせてもすぐに落としてしまいました。
反復行動も増えてきました。
血が出るほど何回も頭を壁にたたきつけ、いったん癇癪をおこすと手のつけようがありませんでした。
手をたたいて音を出したり、踊ったり、指差したりもしませんでしたし、人と目を合わせることもせず、なんでも一列に並べました。
身体も弱く、階段の昇り降りはできず、走ることはおろか、長距離を歩くこともできませんでした。
両足でのジャンプや片足跳びもできませんでした。
他人に笑顔を見せることはなく、家族とさえもかかわりませんでした。
くるくる回るものを見つめる以外、何にも興味を示しませんでした。
触覚過敏があったため、髪の毛を洗ってやることは至難の業でした。
リモコンのカチッという操作音は聞こえているようなのに、大きな音への反応はありませんでした。
神経科での治療を続けながら、私たちは心理、教育などの専門家や「自閉症スペクトラム」のスペシャリストなどにも相談しました。
専門家たちはみな、マテオの「自閉症的」行動は発達が未熟なためである可能性があり、いろいろな療法の効果は少なくとも6か月続けてみないとわからないと言いました。
2歳半のころには、言語療法、作業療法、行動療法など、いろいろな療法を始めていました。
私たちはセラピストに言われた通りのことを家庭できちんと、まったく手を抜かずにおこないました。
教えられた方法や提案を6か月間、忠実に実行しましたが、マテオに変化は見られませんでした。
7か月の間にマテオは3回転校しました。
何かがうまくいかず、別の何かを求めたからです。
私たちは「フィラデルフィア・メソード」のことを思い出し、調べて 人間能力開発研究所を見つけました。
そこはまさにマテオのための場所でした。
たくさん読んだ資料の中で、6歳のアレックス・マルケスという子どもの話が心に飛び込んできました。
4月に人間能力開発研究所に連絡をし、母国メキシコで8月に行われる 「あなたの脳障害児になにをしたらよいか」コースに申し込みました。
これこそ私たちがたどりかかった道だと納得しました。
健常へと向かう道です。
人生を変えるきっかけとなったこのコース受講後、家族で重要なことを決めました。
まずは、食生活を改善することでした。
最後の決断は最も難しく、批判の的にもなりました。
それは、子どもを学校に行かせずに家庭で過ごさせるというものです。
しかしこれこそ私たちがたどりたかった健常への道だと確信したのです。
コース修了後家に帰ったとき、それまでマテオの治療にかかわっていた医師からついに「自閉症スペクトラム」という診断がくだされました。
その診断で私たちの期待と夢が消えることはありませんでした。
私たちにはすべきことがあったからです。
これまでのいろいろな療法をやめ、8月から12月までホームプログラムに専念しました。
コースで息子の脳の発達のプロファイルの作り方を学び、あらゆる症状を改善させるために家庭で働きかけができるという力を得ました。
すぐに変化が見られました。
栄養面のプログラムで働きかけた結果、1週間たたないうちに言語が出始めました。
マテオは1から10までを数えるようになり、母音を発するようになりました。
冷蔵庫の扉についていたアルファベットのマグネットを、完璧に正しい順番で並べて見せたのには驚きました。
20まで数えられたのもびっくりでした。
脳のなかには情報がたくさんあったのに、食事を改善する前はそれを表わすことができなかったのです。
読みのプログラムを始めてからは、語彙が増え始めました。
8月には言える言葉がたった2語だったのですが、12月にはほぼ20語にまでなっていました。
腹ばい、高ばい、パタニングは、毎日おこないました。
反復行動はほぼ完全になくなり、頭を壁にたたきつけることもしなくなりました。
私と夫は12月に人間能力開発研究所で アスピラントプログラムを受けることになりました。
同時にレクチャーシリーズⅡを受講しました。
私たちが初めて 機能診断をしたときは、重度、拡散、両側、大脳皮質と中脳の障害という結果でした。
たった4か月間家庭でプログラムをおこなっただけで、マテオには大きな変化が見られました。
12月から5月にかけて、私たちはレクチャーシリーズⅢを受講しました。
言語と読みのヴィクトリーを目指すことが、新しい目標となりました。
マテオは毎日2キロをノンストップで歩いていました。
私たちは正式に人間能力開発研究所の 集中プログラムの家族として受け入れられました。
5月から11月の間で最大の変化は行動面に現れました。
指示に従えるようになり、手作りの本は180冊以上読み、ビッツカードは500枚以上見ました。
算数のプログラムも始まりました。
身体的にも強くなりました。
このとき、理解力と健康のヴィクトリーを獲得しました。
より長いフレーズで話すようになりました。
機能診断の結果、成長率は127%となりました。
研究所訪問のたびにレクチャーシリーズを受講し、このときはレクチャーシリーズⅣでした。
レクチャーシリーズはなによりも素晴らしく、内容の豊かで、パワーを得られます。
現在マテオは、独りで読めるようになり、また独りで ブレキエーションができるようになることを目指しています。
算数のプログラムも順調に進み、ビッツカードを見るのもが大好きです。
世界の国旗、美術、音楽家、絵画、海の生物、地図など様々な分野の知識を身に着け、知性面では年齢レベルをかなり上回っています。
外国語である英語の本も読み始め、英語での指示にも従えるようになりました。
次の訪問ではランニングのヴィクトリーも目指しています。
触覚過敏もかなり改善し、帽子やサングラスも着用できるようになり、どんな材質の衣服でも大丈夫になりました。
髪を洗ってやることも大変ではなくなりました。
聴覚経路が大幅に向上し、恐ろしい音へも適切な反応を見せ、名前が呼ばれると反応します。
愛情表現も豊かになり、家族や友人を抱きしめたり、キスをすることが大好きです。
歌を歌うのが好きで、このごろはジャンプもできるようになりました。
自立度が高まり、歯を磨く、服を着る、自分が過ごす場所をきれいにしておくなどは、マテオの責任分担となっています。
マテオの妹、1歳6か月になるソフィアは、マテオのプログラムの恩恵を受けています。
マテオの 運動プログラムをまねしているうちに、横転がりは完璧にできるようになり、今は前転をマスターしようとしています。
棒を使って17秒のぶら下がりができます。
最近は読みのプログラムも始めました。
家族として望むこと、目指していることは、子どもたちの脳と身体の能力に秘められた可能性を十分に開花させることです。
息子が 脳障害を克服し、普通の生活への第一歩を踏み出せたのは、私たちが人間能力開発研究所にたどり着き、その方法を学び、行くべき方向を知り、支援を得ることができ、経験豊かなスタッフが助けてくれたからです。
グレンがよく言っていました。
「迷いが生じたら、子どもに賭けなさい。
かならず勝てます。
子どもが勝者になれることが、何よりも大切なのです。」